その日、シーグは一日中、取り寄せた学術書を読み耽っていた。時を忘れて読み続け、文字が見づらくなったと思いランプを灯そうと顔を上げれば、そこにはちょうど部屋に入ってくるノエリアの姿。
「おかえりなさい、ノエリアさん」
「ただいま帰りました、シーグさん」
こちらから挨拶をすれば、ノエリアからも穏やかな微笑みが返ってくる。
「お茶でも、淹れましょうか」
戻ってきたばかりで疲労の残っているだろう彼女に働かせまいと、腰を浮かしかけると、逆に彼女に制止された。
「シーグさんは、今その本を読んでいらっしゃるんでしょう? 勝手に訪ねて来て中断させてしまったのは私なんですから、お茶を淹れるくらい、させてくださいな」
「いや、でも……」
「いいから、座ってらして下さい、ね?」
どのみち明かりを点けねば本の続きは読めなかったから、彼女が来ようが来まいが中断はしなければならない所だったのだ。そう反論しようとしたが、彼女の有無を言わせぬ笑みにその言葉は溶けてしまった。
「……ノエリアさんは本当にマメですね」
諦めて座った自分の視界をキビキビと動いている細身の姿を眺めつつ、せめてもの抵抗のように言ってみると、
「そんな事ありません、単にこういうの、好きなんですよ私」
と、本当に嬉しそうな笑顔を返されて、曖昧に笑う。疲れている人に更に働かせている罪悪感が、彼女の姿から目を逸らさせる。疲れていないはずがない、彼女は今日も1日仕事をして来て帰ってきたのだ。それに引き換え自分は、と見れば、ココアとの旅を一度中断して休んで居る所だとは言え、今日は楽しく本を読んで過ごしただけである。どう考えても人を働かせていい立場では無い。
「……無理せずに、休んでくださいね?」
「私、無理なんてしていませんよ。こうやって、漸く仕えるべき君主様を見つけて、私とっても幸せですし、幸せな時にはこうして動く気力も湧いてくるというものです」
ニコニコと、本心からそう返されて、途方に暮れる。要するに、休んでほしいのに中々休んでくれないのだ。アキラも時折こうして困った顔を見せる事があるのを思い出し、その裏にあった感情を理解する。
「はい、どうぞ!」
目の前に出来上がった紅茶を差し出されて、苦笑と共に受け取った。内心でなんだかんだと言いつつ、結局彼女に最初から最後までやらせてしまったのが、どうにも落ち着かない。
「……そんなに呆れた顔しないで下さいよ」
その表情を読み取って、口を尖らせた彼女に、しかし苦笑しか返せない。
「……紅茶、ありがとうございました。もう休んでください、お願いですから」
「……そんなに追い払うみたいに……傷つきますよ?」
「そうじゃないのはノエリアさんだって分かっているでしょう、僕がノエリアさんを追い払う訳がないでしょう?」
臆面もなくそう言ってみれば、漸く唇は常の位置に戻る。もう暗くなってきた窓にそれでもまだ少し不満気な彼女の姿がうっすらと浮かび上がるのを眺めて、シーグは彼女に意図的に背を向けた。
「僕ももう少ししたら寝ますから、早く寝てください。アキラさんにも心配をかけます」
「……アキラさんに心配をおかけするのは、確かに嫌ですね……。でも、まだ寝るには早い時間じゃありませんか?」
「だとしても、仮眠は取るべきだと僕は思いますよ」
「分かりました……じゃあ、また今度、お忙しくない時にお喋りしてくださいね」
そのセリフと共にドアへ向かったノエリアの背中に、今度は自分が振り返った。どうやら先程の、追い払うみたいに、というのは半ば本気であったらしいと気付き、最早彼女には見えない事は知りつつ困った顔になる。
「ええ、……本のせいではありませんよ?」
「そんな事思ってません」
振り返らぬまま、出て行った彼女の背に再び苦笑する。
ランプを、灯す。