優美、とあの優しくて柔らかい声で呼ばれるのが好きだった。ひろかず、と嬉しくなって返す声が好きだと言われて、嬉しかった。
彼は私の恋人で。私たちはもう、それはもう、どこから見ても幸せな恋人生活を送っていて。
でも、彼は決して完全に幸福ではなかった。
彼は常に、どこかに悲しみを抱えていた。
毎日世界のどこかで人が死んでいくのを悲しんでいた。毎日世界のどこかで人が争うのを、悲しんでいた。
いつも、身近な誰かが諍うのを悲しんでいた。いつも、身近な誰かが傷つくのを悲しんでいた。
彼も、私も。そんなささやかな悲しみを除いて、幸せに――実に幸せに生きていた。裕福ではないけれど、幸せに。
けれど、彼は死んだ。
事故じゃない、事件じゃない。
自分の、意思で。
自殺だった。
ただ一言の書き置きもなくて、彼は静かに死んでいた。
彼を最初に見つけたのは、私。
とても、穏やかで、安らかな死に顔を一時間ほども見続けてから、漸く私は警察へ通報した。
沢山取り調べられて、彼の死は自殺だったようだ、と結論付けられて。私はただぼんやりと、どんなに調べたってどうしてその他の結論が出るものか、と思っていた。彼はいつもどこか何かを悲しんでいた。その悲しみがついに彼を殺したのだ。私には至極しっくりと納得がいく。他の誰に分からなくても、私には分かる。そうでなくてはならない。
悲しい為に彼は死んだ。
ならば、哀しみそのものが、彼を殺した犯人だ。
どこか薄ぼんやりとした頭のなかで、私はそう結論づけた。
哀しみなんて。悲しみなんて。消えて亡くなってしまえばいい。
私から、彼を奪ったのだから、その存在を以って罪を償わなくてはならない。
即ち、悲しみの消去。
私の前に、一人の青年が立った。
「何か、報復したいみたいだね」
「ええ、そうよ」
私はぼんやりと返した。青年の顔は、長く伸びた前髪とシルクハットの縁に覆い隠されて、よく見えない。
「ねえ、お姉さん。一つ、ゲームをしよう?」