20XX年。
世界は、徐々に麻痺していっていた。
ゆるり、夢の中から僕の意識は浮上する。
何か、楽しい夢をみていた、ような。
どうせ目覚めても、目を開くことはない。僕の目も、耳も、須らくそこに届く情報を完全に遮断する機能を持った覆いが被せられている。僕の舌は、長らく何の味も感じた事がない。僕は特殊な薬液の中に、浮いている。
別に、僕は虐待されているわけではない。これは、僕がかかった、今世界各地で確認されているとある病気の進行状況を抑えるための処置。いわば延命措置だ。
その病気の名は、長すぎて僕は覚えていない。ただ分かっているのは、その病気が進行すれば、僕は全ての五感を失って、全く動けない生きた屍となる事だけ。
五感を使わなければ、生き延びられる。いざというときに、僅かな時間だけかも知れないけれど動き続けられる。
だから僕はこうして、機械によって与えられる僅かな脳への刺激を頼りに、狂わず、ただ生きていた。
治療初期は狂いそうだった。
情報が無い。
娯楽も無い。
趣味は愚か、食という人間にとって最も根源的な娯楽すら封じられて、僕は何もできず、ただ何も触れることのない感覚の中で、まさしくありとあらゆる意味で闇の中を生きて。
いっそ殺してくれと叫びたかった。
実際叫んだかもしれない。だが、それもわからないのだ。耳への音は完全に遮断されていて、それが実際に音を成したのかも、それが音を成したとして果たしてこの薬液の外で僕達の管理をしているであろう誰かに届いたのかも分からない。
何も、僕は出来ない。
全てに対して受動的で、だが受け取ってはならないのだ。
何かを受け取って、何かを自分から出来るのは、遥かな過去の記憶を濾しとって脳が生む夢の世界でだけ。
僕は、恐らく他の多くの患者がそうしているように、夢の世界へと逃げた。
夢の中では僕は自由だった。
徐々に記憶は薄れていくけれど、確かに夢の中では古い友人たちと語らえた。古く懐かしい、愛する友人たち。
――彼等の幾人が、僕と同じ病に冒されたのだろう。彼等の幾人が、まだ病に冒されずに麻痺していく社会を見つめ続けて、健康な者にかかる増大していく負担を背負い続けているのだろう。
――彼等の幾人が、薬液の中に封じられた者を懐かしんでいるだろう。
――彼等の幾人が、僕を思い出してくれるだろう。
知りたかった。会いたかった。彼等に、いや彼等でなくても。
人に。生きた人に。会いたかった。
自分の脳が生み出したまやかしでない人間の体温を感じて、その声を聞いて、その顔に浮かぶ表情を見て、その人と同じ食べ物を同じテーブルに並べて、その匂いを肺一杯に吸い込んで、味わって、それについて語らいたかった。
叶わない夢だと知っていた。
自分はこの薬液の中で延命治療を施されているだけの身で。
この薬液を出て、今まで封じて来た五感を解放したらそもそもそれ以前の問題として、久々の情報量を脳が処理しきれなくて動けなくなる。何より症状が進行して、間もなく文字通り筋肉一つ動かせず何も感じられない、これまで以上の闇に閉ざされる。
だからこれは、ただの、夢。
最早叶わない夢だった。
過去の僕が当たり前に享受していた幸せだ。この病気が世界中にはびこり猛威を振るい始める前の僕はあまりにも脳天気にお気楽に、この幸せを享受していた。
当たり前に友人と触れ合って、肩を容赦無い平手打ちで殴って、痛いなこの野郎って怒鳴られたり、相手の言葉を受け取ってバカじゃねえのとこき下ろしてみたり。
この飯まずいなと顔をしかめながら見合わせて苦笑してみたり。
ああ、俺はクズみたいな人間だったけど。
今なら、きっともっと大切に出来るんだろうなあ。
大事にしていたら良かった。
泣きたくても、泣けないし泣いても分からない、こんな空間に居る事がどうしようもなく辛かった。
もう一度だけでいいから、死を意識しないで彼等に会って、ガラじゃないけど大好きだと伝えて見たかったなあ。
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2017/02/27 続きを書きました →「re:失感」