高三の夏休みの作文代わりに書いてた小説です。今読むと当時どの小説から影響を受けてたのか自分で丸わかりすぎて恥ずかしいけど一応自分が書いたもの。という事でそのまま直しもなしで供養です。


最初に女性を花に喩えた人は、何を思ってそうしたのか知らないが、よく考えた物だと思う。朝顔のような女(ひと)、藤の花のような女、橘のような女。皆、どんな人なのかが一発で分かる。
私はどんな花に似てるだろう? いつか尋ねたとき、何かを一瞬躊躇うような表情と共に、こう言われた。――君は、菖蒲(しょうぶ)のような女だよ、と。
彼は、知らなかったのだろう。花菖蒲でない、本当の菖蒲は、美しい花なんて咲かせないことを。

「みっちゃんはさ、悲観的に考えすぎだよ。大丈夫だって、絶対」
私がそんな事を仕事場の近くのカフェで言われたのは、それから、五年が経った頃だった。
「沙奈はいいよね、いつも仕事に定評があって、大きな失敗したことなんかないんでしょ」
同僚であり、大学時代からの友人でもある沙奈は、美人で、仕事もできる、性格も明るい――私が男性なら、恋人に選びたい資質を全て兼ね備えている人だ。正直、何故彼女のような華のある人が、私のように地味で暗くて平凡以下の仕事しか出来ない女に構ってくれるのか、よく分からない。そんな得難い友人である彼女に対してさえも僻みっぽい言葉を口にしてしまう程に、今の私は落ち込んでいた。
私と沙奈が共に勤めている会社のお得意先であった大会社との会合への時間を私が間違えて上役に伝えてしまったために、会社に大きな損害を出してしまったのだ。
「みっちゃん、だから落ち込みすぎだよ。大体、みっちゃん一人に全部の連絡を任せて、いざ間違えた時の保険をかけて無かった部長達も悪いって」
「でも、そのせいで会社全体に大迷惑をかけたのは間違い無いんだから……」
「あーもう、くよくよしないの!」
向かいの席に座った沙奈が、ぎゅっと私の頬をつまむ。
「いひゃい、いひゃいよ、ひゃな」
「だーめ、暫く放さないんだから。確かにみっちゃんのミスは痛かったよ。でもね、たった一つの取引先を失った位で潰れるようなら、うちの会社はその程度の会社だったって事よ。大丈夫、私達の会社はそんなにやわじゃない」
そこまで言って漸く手を放すと、沙奈はふーっと息を吐いて椅子の背もたれに寄り掛かった。
「沙奈はどうして私なんかをこんなに一生懸命励ましてくれるの」
気づくとそんな事を聞いてしまっていて、自分の精神状態が本当に下り坂のどん底に辿り着こうとしているのを知る。
そんな事を一々気にして聞くような人間は、大抵鬱陶しがられる。私は何度もそれで悪気なく敬遠されて来たから、よく知っているのだ、そんな事は。そしてまた、私は同じ間違いを繰り返そうとしている。
「みっちゃんてば、自分の事卑下し過ぎだよー? 友達励ますのは当たり前じゃない」
それをカラカラと明るく笑って、でも流すのではなく真面目な答えを返してくれる。――そんな沙奈が、私は大好きだ、と強く思う。彼女は失ってはいけない友だとも。
「……うん。ありがと、沙奈」
「元気になった? じゃ、会社戻ろう?」
正直、元気になった、とは言い難い。けれど、会社に戻る気力は返って来た。私は沙奈の言葉に頷いて、沙奈に続いてカフェの席を立った。

散々叱責を受けていつもよりちょっと余分に押し付けられた仕事をどうにか終わらせて家に帰り着く。もう動かしたくもない腕を持ち上げてポストを開け、山ほどのチラシを取り出す。殆ど興味の持てない内容ばかりのそれらをカバンと一緒に抱え込んで誰もいない真っ暗な家の中に入り、資源ゴミにそのまま突っ込もうとして――私はそれを見つけた。
『○×大学同窓会案内』
「……」
疲弊しきった感情が、そんな物行かなくていい、そのままそのゴミ袋に入れてしまえ、と囁く。そんな物、行っても気疲れするだけだぞ、と。けれどすぐにそうさせなかったのは、沙奈の所にもこの案内が届いているだろうな、という推測。沙奈はきっと行く。そうしたら、私が来ていない理由を皆は勝手に憶測するだろう。今の会社でもやっぱり上手くいっていないんだろう、あの陰気女。杉坂沙奈は昔から上手く人付き合いしてたけど、尾崎未可子は相変わらずダメなんだろう。だから杉坂は来てるのにあいつは来ないんだ。押し付けられた仕事が間に合わなかったんだろう、どうせ。そんな事を言って皆が陰で笑う姿が見えるようだ、その声が聞こえるようだ。或いは、尾崎はまた俺達から逃げたな、臆病者だな、とでも言われるかもしれない……。行かない限り、何を言われていても分からない以上、この想像はもはや振り払えないお化けだ。
――結局、同窓会案内は捨てられずに机の上に置いて、晩御飯も食べずに寝てしまった。

「沙奈、昨日の案内、見た?」
翌日のランチで、私は自分から沙奈にそう聞いてみた。もしも沙奈が行かないのなら、私も行かない口実ができる。
「ん? ああ、大学の同窓会の? 見た見た。みっちゃんも行くよね?」
「てことは、沙奈は行くのね」
「行くよお。普通に懐かしいじゃない? ……って、行かないの?」
まあ予想通りの返答ではあるが、やはり少しがっかりする。沙奈が行かないのであれば、どんなに気楽であった事か。
「んー……迷ってたんだけど、沙奈が行くなら行こうかな」
内心の落胆は表に出さないように返事をしたつもりだったが、沙奈には隠せなかった。
「……何、みっちゃん、乗り気じゃないの? いいじゃない、もしかしたら新た……じゃないけどトキメク出会いとかあるかもよ」
「沙奈、そういうの期待してるんだ?」
「そりゃそうよ、私達年頃のオンナノコなんだよ? いつもと違うイベントがあれば出会いを期待するのは女の本能ってやつでしょ!」
「……いや、それは違うと思うけど……」
なんだか妙に目を輝かせて出会いを語る沙奈に戸惑いながらも、私は昔の同級生諸子を思い出す。……果たして今更トキメクような相手などいただろうか。私がいると何事も上手くいかないと陰に日向に嫌味を言われ続けたような相手の顔ばかり浮かぶ。
私が嫌な相手の顔を次々と思い浮かべて眉根を寄せていると、沙奈が急に向かい側から身を乗り出してきた。コーヒーをひっくり返してしまいそうな勢いに、思わず目を白黒させてしまう。
「そうだ! みっちゃんあの人いるじゃん!」
「え? ……誰の事?」
「ええと……名前が出てこないけど……ほら、いつも教室の隅の方で本読んでた……」
「……浅岡君?」
「そうそう! 一時期気になってるような事、言ってたじゃん!」
「ええと……」
そう、彼を意識していた事は一時期確かにあった。けれど……彼なのだ、私を「菖蒲」だと言ったのは。花は美しくもないガマの穂に似た花しか付けない、名前だけは一丁前で、アヤメや花菖蒲と間違えられるような、そんな草。しかし、彼のそんな発言に傷ついたのは、それが本当に私だと、自分でも納得してしまったからかもしれない。
私など、美しい花には程遠い。
「……何、浅岡君といつの間に気まずい事になってたの?」
私の難しい顔に気が付いて、沙奈が困ったような顔をする。確かに、彼に「菖蒲」だと言われた事は誰にも言っていない。そもそも、私が彼とそんな話をしていた事を知っている人間がいない。あの時、周りには誰もいなかったのだから。
「うん……気まずい事になった、って言うより、私が一方的に距離感じちゃっただけなんだけど……」
「よく分かんないけど、それって、ちゃんと話をすれば案外上手くいくパターンじゃないの?」
きょとんとした顔で、首を傾げる沙奈に、曖昧に笑って見せる。あの事をどう話せば上手くいくと言うのだろう。「本当の菖蒲は、花なんて咲かない事を知ってた?」とでも聞けばいいのだろうか?
「みっちゃん?」
……いや、これではただ喧嘩を売っているだけのようになってしまう。一体、彼とどんな顔をして、何を話せばいいと言うのだ?
「みっちゃん、みっちゃんてば……そんなに悩むような事なら……家で悩んだ方が」
「え?」
「ほら、もうすぐお昼休憩終わるし」
沙奈に言われて時計を見れば、なるほど、確かにもう今すぐこのカフェを出なければ午後の仕事に間に合わなくなる時間に差し掛かっていた。
「あ、本当! ごめん、すぐ行こう!」
慌ただしくカフェを出る用意をしながら、頭の中は、同窓会で沙奈が変な気を利かせて浅岡と二人きりにでもされたらどうしよう、という不安で占められていた。……浅岡が来なければ、こんな悩みは無意味だとは分かっていたが。

「我等が愛すべき○×大学の益々の盛栄を祈って、乾杯!」
「乾杯!」
チン、とよく響く心地よい音が部屋中で鳴り渡った。
……月日の経つのが、ここ数年本当に早くなったと、しみじみ思う。そして今日ほど――来なくていいと思った日はない。
「あ、みっちゃん、あそこにいるの、浅岡君じゃない?」
つい先日まで名前も思い出せなかったような相手を、よくもまあこんなに素早く見つけられるものだと、私はつい沙奈に感心さえしてしまう。まだ、参加者全員が集まっている事が確認されて乾杯がされてから、一分も経っていないのだ。
「声掛けたりしないの、みっちゃん」
「い、いいよ……」
浅岡とは微妙に気まずい関係にある事を沙奈にはあれほどキチンと印象付けたというのに、何故未だに私を浅岡と話させようとしているのか、よく分からない。
「まあまあ、そう言わずに。おーい、浅岡くーん?」
「え、ちょっと沙奈!」
沙奈の行動が理解できないと思うのは……初めてだとは言わないが、しかしこれほど意図を読めないと思ったのは間違いなく初だ。ここまで来るとその場のテンションでは済まされない。
「沙奈、何考えてんの?」
「ちゃんと浅岡君と話せばきっと分かるって」
しかもこの期に及んで何が目的なのかも教えてくれないのだ。
「やあ、杉坂さん、……尾崎さん」
沙奈の呼び声に応えてやって来た浅岡も、私の顔を見て一瞬固まった。それはそうだろう、菖蒲の花の話をして以来、私が彼を避けていたのは彼にも伝わっていた筈だ。
「やあやあ、浅岡君。呼んでおいてなんだけど、私ちょっと今からあっちのバフェでご飯取って来たいから、この場所あげるよ」
「沙奈!」
「え、杉坂さん?」
見事なまでに私と浅岡の唖然とした表情をスルーして、あっという間にいなくなる沙奈。そして後に残されたのは――気まずい沈黙。
「えーと……杉坂さんはどうしたんだろうね?」
「さ、さあ……」
浅岡もまた戸惑いを隠せない様子からして、浅岡から何か頼まれていたという訳でもなく、完全に沙奈が勝手にしている事だ。そして、
予想はしてたけどやっぱりか―――――⁈ と私は内心叫んだ。
確かにカフェで沙奈にこの話をした時、こんな事をされはしないかと危惧したものだ。その為に出席を止めようかとも思った。しかし実際にその状況になってみれば、予想以上に気まずい。
「え、えーと……浅岡君は、卒業した後何の仕事してるの?」
辛うじて振れる話題を思い付き、我ながら酷いぎこちなさで浅岡に尋ねる。
「あ、ああ、実は、卒業した後に入社した会社を去年辞めて……作家を目指してるんだ」
「作家さん?!」
思わず声を上げてしまったが、無理のない事だと分かって欲しい所だ。誰に? 誰かにだ。
つい気まずさを忘れて、一読書人として興味の先走った質問をする。
「浅岡君、どんな話書くの?」
「うん、小説……ここではないどこかを舞台にして、人を自由にしてあげられるような……そんな小説を書きたいと思ってるんだけど、中々上手くいかなくてね。少し、現実を舞台にした物にも挑戦してみようかなと最近は思ってる」
そんな風に、苦笑を交えつつもこの年にして夢を語る浅岡は、何だかとても眩しく見えた。
「…………そんな風に自分の夢を追いかけられるのって、凄いな。私は、昔持ってた夢、もう諦めてしまったもの」
日々、目指すつもりで努力をしては失敗ばかりを繰り返して、いつの間にか諦めた夢。つい漏らしてしまった羨んだ台詞に、浅岡は思いの外興味を示した。
「尾崎さんは、どんな夢を持ってたの?」
しかも、真面目に。面食らって思わずまじまじと浅岡の顔を見てしまう。
「……そんな事、聞いてどうするの」
「え……うーん、何だろう。特にどうするって訳じゃないけど……もし今からでも追えそうな夢なら、僕は個人的に応援したいなって、思ったから、かな」
浅岡本人は意識していないのだろうが、かなり意味深に取れない事もないその台詞に、我知らず顔が熱くなり、俯いてしまう。そんな私の様子に、浅岡が気付かずに話し続けているのが、せめてもの救いだろうか。
「僕も、やっぱり作家を目指して会社を辞める事にした時、色々迷いとかあって……でも、高校時代の部活の先輩に後押しをもらって、勇気が出たから、僕も、そんな人間の一人になれたらいいな、というか」
「……」
そんな言葉を聞いていると、ふと思ってしまう。
あの夢を今も追い続けていたら、どうなっていただろう、と。
「…………昔、プロのチェロ奏者になってみたかったんだ」
今となっては、どうあがいても、叶わない筈の、夢。中高時代に部活動で参加していたオーケストラの、チェロ弾きの一人として、私は極当たり前のようにチェロの腕をあげようと努力して、努力が報われるならどんな形だろうかと考え、常に目立たない生徒のポジションを確保しようとしていた私には似合わない、そんな大それた夢を淡く抱いた。
あの後輩が、チェロパートに入って来るまでは、その夢は夢であり続けていた。
彼女は、学年こそ私より一つ下だったが、入って来た時点で私より遥かに上手だった。そんな彼女に、微かに持ち合わせていたプライドで追いつこうと、一時は必死に練習をし――永遠に、追いつけないのだと思い知った。いっそ彼女が、嫌な後輩であったら気が楽だったかもしれない。しかし、幸か不幸か、彼女は私の事を先輩として立ててくれる、後輩の鑑のような子であり、尚更彼女より下手な自分の技量が申し訳なく思われた。
ごめんね、私下手で。彼女に心の中で、そして面と向かっても、何度そう謝ったかしれない。その度に、彼女は、先輩は下手なんかじゃないですと、私に気を使ってくれていた。
そして、そんな風に後輩に対してコンプレックスを抱く生活の内で、私の夢は自然と諦められていた。後輩一人に負けるような技量では、到底プロなどになれた筈もない。今思い返せば諦めて正解だったのだろう。
そう、思って割り切れていた筈だったのに。
気付けば、浅岡にかつての夢を漏らしていた。
「今からは、もう追えない夢なの、それは」
当然のように浅岡からはそんな質問が出る。当たり前だ、今の話の流れならその質問が出ない事は寧ろあり得ない。
「今からはもう無理。だって、もう何年もチェロ弾いてないし、普通、本当にプロになるような人達は音大とか行ってるもの。私には音大に入れるような実力、無いよ」
「そっかぁ……でも尾崎さんがチェロ弾けるなんて、知らなかったなあ……」
「……知ってたら、何か?」
「うん、ちょっとね」
「……?」
その時の浅岡の顔は、まるで悪戯っ子のようだった。

「取材?」
いつものカフェで目の前の席に座る沙奈が、目を点にしている。あの後、結局私と浅岡の所に戻って来なかった沙奈は、私と浅岡がどんな話をしていたのか、知らないのだ。
「うん。何でも、チェロっていう楽器には前々から興味があったらしくて、今度チェロを弾く人を中心にした物語を書こうと思ってたんだって」
「はあ……取材の申し込み……浅岡君も、仮にも女の子に申し込むのに、なんて色気のない……」
そもそも事会話がここに至った原因は、沙奈が、『ねえ、浅岡君に何か申し込まれたりとかしなかったの?』と野次馬丸出しの質問をした事に始まる。確かに、申し込まれた。取材を。
『僕の身の回り、チェロ弾ける人がいなくて、どんな苦労があるのかとか、聞ける人が居なくて困ってたんだ。尾崎さんに話を聞ければ、良い話が書けそうな気がする。駄目かな?』
『……もう何年も前に辞めちゃってるけど、私で良ければ……』
『うん、じゃあ宜しく頼むよ。いつが良い? 都合は尾崎さんに合わせるよ』
『じゃあ、……二週間後で』
ついスケジュール帳をめくり、そんな会話をした結果、また浅岡と会う事になっていた。その事を沙奈に話した結果――
「はあーっ、やれやれ……」
「何落胆してるのよ」
「いや、だってあんなに長い事二人きりにしといたのに? もー、ちょっとはナニか期待してたのになー、私」
「そんな期待勝手にして、勝手に落胆されても私知らないよ……」
私に言われてもどうしようもない。強いて言えば浅岡に言うべき事なのだが、沙奈はやたらがっかりしている。
「まあいいか。浅岡君と気まずかったのは、何とかなったんでしょ?」
「う、うん。まあ……」
――実を言うと、厳密には、解決したとは言えない。彼から、あの発言の真意を聞く事は出来なかったからだ。けれど、夢について語る彼を見ているうちに、私のわだかまりは消えた。
「にししー。だから言ったじゃない、話せば何とかなるんじゃない? って」
「まあ、それは確かにそうだけど。でも最初の空気はほんとに気まずかったんだから! あんな空気で放置されてもう、どうしようかと思ったよー……」
「おや? そうかい? 私からは、気まずそうな空気は一瞬で消えたように見えたけどなあ?」
「一体どこまで見てるんだか見てないんだか……」
「遠目に見てただけで会話は聞かなかったんだから、私紳士的でしょ?」
私がため息を吐くと、ますます沙奈の楽しそうな顔は輝く。
「それで? 王子様とのデートはいつ?」
「沙奈、いくらなんでも、王子様はないでしょ、王子様は! 大体、デートなんかじゃないし」
「いーじゃん、みっちゃんの王子様」
もはやため息を吐くしかできない。今の沙奈には何を言っても無意味だろう――これ以外は。
「沙奈、もう昼休みの時間終わりだよ」
「きゃーっ、ほんとだ! 急ご、急ご!」
――まあ、確かに、楽しみにしてる部分が少しも無いって言ったら嘘になっちゃうけどね。
いつになくハイテンションな沙奈に手を引かれて、店を出ながら、私は胸の中で呟いた。

二週間はあっという間に過ぎた。都内某所の、浅岡の作業用に借りているという部屋を、私はチェロを担いで訪れていた。
「尾崎さん、今日は取材協力ありがとう。早速だけど、チェロを少し弾いてみせてくれないかな」
「……浅岡君、流石に、少し、待ってくれない? これ、重いんだよ、久しぶりに担ぐと……」
息を切らせてやって来た私を満面の笑顔で迎えてくれた、それは嬉しいが、部屋に入るや否やそんな事を求められても困る。昔の私はチェロを入れるのに頑丈さを重視して、重めのケースを選んだ為、チェロとケースの合計重量は約八キロ。見た目に比べれば案外軽いと思われがちだが、それを担いで電車を何本か乗り継いで、漸く辿り着いた所なのだから、少しは考慮してほしいと、心底思う。
「あ、ごめん、つい……こっち、どうぞ」
浅岡に通されたのは、小さな部屋だった。隅に大きめのパソコンが一台置かれ、浅岡が示す手前のソファと、その前のこぢんまりとした机の他には、何も家具が無いのではなかろうか。恐らく、ここが普段浅岡が作業をして、担当編集と打ち合わせをする所なのだろうと、何となく見当がついた。
「はい、粗茶ですが」
コトリ、と目の前に置かれた紅茶を飲みながら、私はふと、思った。――今、聞いてみようか。
「……ねえ、浅岡君、取材の前に、一つ聞いてもいい?」
「うん、何?」
「昔、……浅岡君に、私はどんな花だと思うって、聞いた事、あったよね。あの時、浅岡君、なんて言ったか、……覚えてる?」
私がそれを尋ねると、彼から返ってきたのは、何故か苦笑だった。
「うん、――覚えてる。菖蒲の花……そう言ったよね。尾崎さんに嫌な思いをさせてちゃったみたいだな、っていうのは後から気が付いたけど……尾崎さん、菖蒲の花言葉って、知らないかな」
「え?」
「地味な花だけど、ちゃんと花言葉があるんだよ。アヤメや花菖蒲と元々混同されてる部分があるみたいだけど……」
私が驚いた顔を隠せないままに先を促すと、浅岡は小さく笑って、それを言った。
「あなたを信じます――目立たないかもしれない、でも、いつも人の事を信じてくれてる君にぴったりだと、知った時に思ったんだ」
柔らかい笑顔と共に告げられたその言葉は、私のそれまで抱いていたコンプレックスが間違っていた事をはっきりと教えてくれた。
「え、……ちょっと、なんで泣くの! 待って待って、泣かないで、泣かれたら俺どうしたらいいのか分かんない」
言われて初めて自分が泣いている事に気が付いて、慌ててハンカチを取り出して拭く。
「ごめん……ありがとう、私にそんな素敵な言葉をくれて」
そう言うと、浅岡は照れたように目を逸らして頭をがしがしと掻いて、小さな声で何事か呟いた。恐らく、独り言だったのだろう。しかし、静かな環境が、浅岡にとっては災いしてその言葉は私にも聞こえてしまった。
「あー、もう……間違えて俺とか言っちゃうし……」
「間違えて?」
「え、あ、うん、その……ちょっと、かっこつけてたんだよ、僕、とか言って。焦るとすぐこうだから、俺って……」
そんな事を言って頭を抱えて落ち込んでいる浅岡は、何だか、可愛く思えた。
「かっこつけなくていいのに」
立ち上がりながらそんな事を言ってクスリと笑ってみせると、増々浅岡は情けなさそうな顔をする。
「じゃあ、始めますか」
こんなにすっきりした気持ちでチェロを手に取ったのは、もしかしたらあの部活時代にもなかったかもしれない。
今なら、良い演奏が――あの頃よりも良い演奏ができそうな、そんな気がする。不思議な確信と共に、私はチェロの調律を始めた。

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