※注意
この小説は小説「失感」の続きです。こちらをお読みの上で読んでくださるようお願いいたします。

* * *

一人の友人が特殊薬液に封じられてから、もう幾年もの時が流れた。
自分は彼にとって殊更に特別仲がいい友人ではなかったし、自分も殊更にただの友人以上の感慨を彼に抱いたことはなかった、と思っているが、彼が居たその時間を自分が気楽に好んでいたことを彼が薬液から出ることが無くなってから知った。彼と話した馬鹿な話の数々を自分は覚えていない。覚えている必要のない話ばかりしていて楽しかったからこそ、自分はその時間を好んでいたのだろう、とも思う。
彼に自分と同程度に仲のいい友人は幾人もいた。逆に、自分たちより仲のいい友人はそう居なかったのかもしれない、とこの一年の彼の薬液筒の前の訪問記録を見ながら思う。そこに、自分以外の名はもう記されていない。もちろん彼と同じ病に冒された者も居たが、そうでない者も、いつの間にか来なくなっていた。当たり前と言えば当たり前の話かもしれない。薬液筒の前に来たところで、彼の心臓が未だ活動を続けていて、彼の意識はどこかの夢の中であるらしいという生体データが表示されていることしか見ることはない。彼の顔すら、見ることはできない。そんな所にそう何度も見舞いとも言えないような見舞いに来る方がどうかしているのかもしれない。
硬く厚いガラスの向こうに揺蕩う液は、夜のように暗かった。その内側に人が居るなどと信じられないような、全てを飲み込む暗さだけが、筒の外から中へと観察して得る事のできる情報の全てだった。どこかの水族館で子供が魚の注意を引こうとするようにガラスを叩いたところで、その音が彼の意識に届くこともない。彼の知覚にその音が及ばぬ様に、薬液が完全にその音を吸収する、という知識だけが自分の中にはあった。

彼がこの液に飲み込まれたのは、自分がまだ学生の頃だった。同級生の彼が、その世の中に徐々に広がりつつあった奇病にかかり、恐らく自分たちは二度と会うことは無いだろう、という話を聞いた時、若い自分たちがそんな奇病に襲われるはずはないと無意識に信じていた自分を知った。それが友人の一人であった彼の身に降り掛かって初めて、身近な事として自分にも認識されたのだった。
確か、最初の見舞いは彼と普段馬鹿騒ぎをしていた数人で行ったはずだった。彼が抜けた分だけ空虚になった騒がしさで、まるで彼を迎えに行くとでも言うような気軽さでその見舞いへ行った。かの病の患者だけが入院する専門病棟は、病院という名を投げ捨てたかのように特に何の消毒も予防も要求される事がなく、まるでただの公共施設の様に自分たちを迎え入れた。唯一自分たちの知っている病院らしい手続きは、誰の見舞いに来たのかと名を告げて訪問者のカードを首から提げるという所だけだった。
そうやって看護師に連れられて入った、病室という名の、闇色の薬液筒が林立するだけの空間に、全員が呆気にとられた。その空間は自分たちが短い人生で幾度かは必ず見たことのある病室の中で、最も病室とはかけ離れた病室だった。全員の足が止まったのを見て、看護師は何の反応も見せなかった。慣れていたのかもしれないが、自分にはまるでロボットのように酷く不気味に映ったものだった。自分たちが我に返って再び足を踏み出したのを確認して、看護師は目的の薬液筒の前までやはり無言のまま歩いていった。途中埃っぽい所や整理されていない場所など一箇所たりともなかった。いっそ乱雑にカルテや資料が積まれていれば良かったのに、とぼんやり思った。
まるで人間の居ない施設のようだと、あの時一緒に訪れた誰もが思ったに違いないと、今でも妙な確信がある。やがて辿りついた友人の封じられた薬液の前に立って、その感覚はいよいよ強まった。これまでに通ってきた数多くの薬液筒の前にあったのと同様に、その筒の横にも彼の様子をモニターし続けている観測結果が表示されていて、そのデータの上に自分たちの友人であった彼の名が記されていることの他にその筒の内側に居るのが彼だという証明はどこにもなかった。
薬液筒の前に立って数分後、共に来た友人の一人が、看護師に言った。
「あいつの顔、見えないんですね」
看護師は相変わらず何も感情の伺えない声で応えた。
「私どもも見ることができませんので」
それは遠回しな要望に対する、婉曲な拒絶だった。例えこの病院に勤めていようとも、患者の顔を誰一人見ることは無く、状況から推測するにそれは看護という仕事よりも最早管理の分野であるように思われた。部屋の隅には未だ薬液の満ちていない筒が数本あるのが見えた。
帰り道は行きと打って変わって静かだった。誰ひとりとして、気軽な話などすることができなかった。重い空気を打ち破ろうと持ち出された話題は、一分も保たずに沈黙へと返ってしまった。各々の帰り道が別れる時に、全員が妙に強張った顔で、じゃあ、またな、とだけ言った。その時またな、と言って別れた内の一人は、それから程なくしてあの友人と同じようにもう二度と自分たちの前に顔を見せることはできなくなった。
何故、自分が今も彼に執着するかのように彼の見舞いに来ているのか、よく分からない。他にも自分には友人が、知り合いが、幾人もこの同種の薬液に封じられてきたはずなのに、彼らの見舞いにはもう自分も訪れない。何故、自分だけが、彼だけに、これほど長く見舞いに来ているのか、分からなかった。薬液筒の表面に映る自分の顔は曲面に沿って縦長に歪んで、まともに表情など判別しようがないのだが酷い顔をしている、と自分で自分に勝手な評を下した。

――自分と彼の共通の友達だった連中の内、5人が薬液に沈んでいる。2人が、この病に関わる研究職に就いた。残りは、皆自分の生活を、奇病など関わりのない生活を送っている。
――自分だけが、彼を覚えて、こうして会いに来ている。
――自分は、彼だけを覚えて、こうして会いに来ている。

知りたい、と思った。会いたいと思った。薬液の中に封じられたまま幾年を過ごした、彼の友人に。

この数年間、誰の顔を一番思い浮かべた?
この数年間、誰の声を一番思い浮かべた?
この数年間、何の匂いを一番思い浮かべた?
この数年間、誰と食った飯を一番思い浮かべた?
この数年間、誰の手の暖かさを思い浮かべた?

柄ではないけれど、そんな問いかけをしてみたい。

柄じゃなくても、彼の事をもっと知っておけばよかったと、そう思った。

もう叶わない、ただの夢でしかない。

薬液筒を、後にした。彼に会いに来る他に、奇病と関わりのない生活を送っている一人である自分が、やはり奇病と関わりのない人のところへ帰る時間だった。

柄じゃあ、無いけど。

あいつにも、たまには好きだって言ってやらなきゃ。

二度とそんな言葉を発することのできないであろう友人に会ってきたにしては、酷くグロテスクな感想を抱いて、施設から歩き出した。

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